2003年大分に帰郷してあべ歯科クリニックを開院し、日々目の前の患者さんに少しでもいいことを提供したいという思いで診療させていただいてきました。
開業9年目のある日、実家の納戸から小学3年生のときに書いた作文が出てきました。内容は大まかにこんな感じでした。
ボクの将来の夢は歯医者さんになること。
歯医者さんになってみんなを助けたいということ。
歯医者さんになって父を手伝いたいということ。
そのためにもっともっと勉強を頑張るということ。
涙が出ました。
これが自分の原点だったんだと。
全く記憶にないその作文が出てきたことも運命だし、開業10年目を迎える節目のタイミングだったことも運命です。
多くの勉強会や講習会に毎週のように参加して、自分のされたい、家族にしてあげたい歯科治療が徐々に変わってきていました。
いいことをしたくて勉強しているのですが制限だらけの保険診療では、ほぼ全てを行うことができないのです。
知っているのにやれない。
やったほうがいいのにできない。というジレンマに苦しんでいました。
言い方を変えれば、知っているのにやらない。
やったほうがいいのにやらない。
という選択をしていたのです。
こんなことは大学を卒業した時には考えてもいないことでした。
不勉強の頃は痛くなく、早い処置を目指していました。
それで十分だと思っていました。
しかし勉強を重ねるにつれ、安全・安心は当然のことで、基本に忠実に最善の処置を行うことで、高い成功率と長期的な予後の見込める治療を求めるようになっていったのです。
丁寧に。慎重に。確実に。
マイクロスコープを用いた拡大精密歯科治療が自分のされたい、家族にしてあげたい歯科治療になっていました。
ちょうどその頃、『パンキー・フィロソフィー』という本と出会いました。
アメリカのL.D.パンキー先生は1924年アメリカのルイスビルで歯科医院を開業しました。その当時のアメリカでは歯は悪くなれば抜くのが一般的でした。
パンキー先生もそのような治療をしていました。しかしある日パンキー先生の母親から一通の手紙がきます。
『あなたの診療は、うまくいっているようで何よりです。
でも、私が受けたようなことを、あなたは患者さんにしていないでしょうね。私は歯をすべて抜かれてしまって、今では義歯をしています。これは私の人生にとって最高に不幸な経験です。』
若きパンキー先生が教えを受けたハリースミス先生の言葉です。
『これだけの費用なら十分な治療をしますが、その程度でしたら途中までやりましょう、あまりに安い費用ですとやり損ねかねませんね、というようなことを患者に話すようにすすめるのは、単なる歯の提供業者ではないだろうか。』
『あなたのするべきことは、歯科医学のできうる最適の方法を患者に告げることです。その上でどうするかは患者が自分で決定することなのです。
患者との間に妥協をはかるつもりであるなら、あなたが前もって判断してするのではなくて、患者の知識を基本において妥協することです。あなたのすべての患者に最適な歯科治療がどういうものかを話すべきです。
どこか他へ行く決心をしたときにも、もどってこられるようにドアを開けておきなさい。私も何年もの間に、自分の歯を半分以上も失ってから数多くの患者が戻ってきたのを経験しています。』
本来の歯科医療でも歯科医学でも無い保険診療というシステムに、いつの間にかがんじがらめにされて苦しんでいたのです。
私はこの本に出会い、この言葉たちに感動と勇気をもらい、行動を起こすことを決心しました。
「自分の家族にしたい治療を患者さんにも提供する、されたくないことは患者さんにもしない」という単純な想いを実現させる為に制限だらけの診療から離れ、患者さんに最適な最善の治療だけを行う『保険医である前に歯科医師である』という選択をすることにしました。
Dentistry is a work of love
Bonafide dentistry
この言葉たちを胸にこれからの歯科医師人生も全力で進んでいきます。